地蔵峠〜青崩峠
★ 魅力
日陰岩
遠山谷最北の集落。国道152号線がここで終わる。現在、住宅が一軒あるのみ。
秋葉古道(大平道)
日陰岩〜上平間の上村川沿いの道は、大正期に川金製材が切り開いた木馬道である。
キラ坂
遠山氏が地蔵峠を越える際、程野から奥は難路のため、山伏の装束に着替えたという。帰りにはキラ(上等な服)に着替えたという。
程野
地名は「ほど」が繁殖することから、また「ほと」は山と山の間の谷状のk丁島・田平場・八平・キラ坂・城越・上平・小嵐・上島・西・東・モシトデ・ウトドチの集落がある。
中郷
現在の主要道である上村川沿いの車道は昭和七〜八年に開通した道で、それまでは山腹の中郷を通っていた。大渡沢〜中郷間の道に昔の雰囲気がよく残る。馬老沢・蟹久保・新島・奥島・熊ノ川・筆島・土諸・黒川・老林の各2〜3戸程度の集落群があった。
沓打場
小川路峠道と地蔵峠道が合流する。ここで馬の蹄をけずったり、蹄鉄を作る家があった事による地名。上町前を流れる伊藤沢は増水すると通行できず、手前の集落で馬方衆が大勢足止めされたという。集落付近の道は消滅した。
上町
古くは門村といい、飯田と遠山谷を結ぶ主要道だった小川路峠越えの門の集落。馬方達は峠越えに丸一日かかるため、その起点の宿場として賑わっていた。集落は表町と表町からなり、馬宿6軒、旅籠3軒、商家10軒あった。通りの中央には町川が流れていた。集落の外れにある馬宿「ます屋」では30頭ほどの馬を受け入れたという。旅籠の「四ツ目屋」などは善光寺参りの「一新講社」の看板を出していた。
八日市場
上町と上島の中間の集落。屋号が「茶屋」の家や、明治初年まで馬宿をやっていた農家も4〜5あった。上町〜八日市場間の上村川右岸の秋葉街道は消滅。
下栗
「日本のチロル」と称される。霜月祭りに代表される民族、耕して天に到るといわれる農家の暮らし、峨ヶとした赤石山脈の景観であり、世界にここだけの下栗である。
梨元
遠山鉄道の停車場跡地。林鉄は大沢までの30.5kmを結び、班員400人、機関車7台、貨車242台があった。跡地には機関車と遠山川から出土した埋没木を展示する。
木沢
上町と和田の中間にある宿場(間宿)。十頭ほどの馬を泊めた馬宿「角屋」と旅人宿「中屋」があった。木沢八幡神社では霜月祭りが開催される。
合戸峠
昔は秋葉神社の鳥居があった。小川路峠の鳥居を一つの鳥居とすれば、二つの鳥居になろうか。三つの鳥居は青崩峠。峠の大杉おは和田からよく見える。峠越えの道跡はよく残っている。
和田
本町は古い地区で、新町は亭保三年七月二十六日の大地震で森平山の井山(地震山)が押し出し、遠山川の流路が今の位置となり旧流路にできた町である。明治・大正の林業が盛んな頃、料理屋十軒、芸子衆二十人もいて賑わった。朝夕ともなると、荷をつけた多くの馬が集まり、騒然としていた。「飯田行くなら馬糞を見ろ」と言うほど、馬の交通が多かった。
馬宿「島畑」
「島畑」は地名で屋号は「藤屋」であった。明治二五年の『宿泊人名簿』から、宿泊者は秋葉道者と商売人に大別でき、特に遠州へは六割五分が秋葉道者であった。その多くは小川路峠を越えて来て宿泊し、翌日は西渡の宿がに向かった。(一日約30〜40キロ歩く)住宅前に秋葉街道が通り、下は小嵐公会堂まで道跡がある。上は不通。
梅ノ木島
現在、一軒の廃屋「宮下家」が林の中に残る。家の前を通る道が秋葉街道。
判ノ木
四軒あったが、戦後に飯田や東海地方に転出した。一軒は火災で焼失、三軒は廃屋になっている。街道の両側に畑の石積みが残る。
ヒョー越
標高1317m。信州の八重河内・此田と遠州の草木大嵐を結ぶ峠道。地名の由来は兵が越えた、俵が越えた、日傭(木材を流す人)越えたからなどという。武田信玄の軍勢が元亀三年十月十日、一万五千以上の兵を率いて遠山谷を通って青崩峠とヒョー越を越えて遠江に侵政した。狭く険しい峠を通るには時間がかかる。近年50名ほどのグループで越えた際には先頭と最後尾で5分の差があった。これに当てはめると1時間に600人。一万人が越えるのに約17時間以上を要した計算になる。
合戸峠
昔は秋葉神社の鳥居があった。小川路峠の鳥居を一つの鳥居とすれば、二つの鳥居になろうか。三つの鳥居は青崩峠。峠の大杉おは和田からよく見える。峠越えの道跡はよく残っている。
青崩峠
標高1082m。北側が崩落しており、その地肌が青色であることから「青崩」と呼ぶ。『甲陽軍総記』には「青がれ峠」とある。峠の『青崩牌』には「往来するには病気になるほど険しいと嫌われた青崩峠は、さほど高い所ではない。悪な道で、石ころが多く松や杉のほか草木も育たないところで、その景観は自然のまま。大きな岩は家ほどあり、奇岩は鳥獣のように見える。」とある。峠では夏の早期時雨のような雨「しごり」が降り、冬には峠から冷たい風「信州おろし」が水窪に吹き下ろす。北条時頼・宗良親王・武田信玄の軍勢らが越えたことで知られるが、他にも商人、秋葉山への参詣者、白装束姿のご女、茶摘みの若い女衆、製糸工場の糸取り女工、茶を運ぶ男衆らが越えていた。
地蔵峠
上村と大鹿村との境。現在でも道中の安全を守る地蔵尊が祀られています。名前の由来の地蔵は、元々峠の南にある「堂屋敷」地籍に安置されていて、四基あった内の二基を大正期頃に相次いで移転したものという。一基は延命地蔵で「昭和九年辰十月二十八日」と刻む。上青木中沢の松沢家らの先祖が立てたらしい。南朝の宗良親王が転戦のために行き中し、のちに遠山氏が江戸への参勤のために往復した峠です。秋葉街道はこの峠を越え、分杭峠・杖突峠を経て甲州街道に至ります。
★ 観音様・文化遺産
秋葉・金毘羅日
長野県下伊那地方では、秋葉大権現(火の神)と金毘羅大権現(水の神)がともに祀られる場合が一般的です。
下栗の秋葉・金毘羅大権現塔
供養塔道標→木地師墓→程野城跡→程野正八幡宮→中郷道標→中郷八幡宮→佐倉様→上町正八幡宮
南信濃
押出道標→和田城跡→龍淵寺→下和田道標→下市場諏訪社→梁木島番所→根木三十三観音