塩の道

縄文時代から続いた海と山の生活、いのちを繋いだ道。
遥か昔は古代人達が黒曜石と塩を交易した道ー秋葉街道
歴史のある秋葉街道
古くから塩の道とも呼ばれていた

この地に足りなかったのは生活必需品である塩でした。

古代人は、遥か太平洋でとれる塩を求めて、主に和田峠で採取される黒耀石と交易をしました。古代人にとって「星のかけら」と呼ばれる黒曜石もやじりなどに使われる生活必需品でした。今、和田峠産である黒曜石は本州のいたる所で発掘されています。

秋葉以前の遠信古道

秋葉街道は、秋葉信仰が広まるよりも前から存在していた古い道です。
柳田国男はこの道について、「我々から言うならば寧ろ諏訪路とも、遠山通りとも呼んでみたい」と述べています(「東国古道記」)

縄文時代からの塩の道

この遠信古道―のちの秋葉街道―よって運ばれていた重要な産物の一つに、塩があります。
海のない信州に持ち込まれる塩は、日本海からの「北塩」と、太平洋からの「南塩」がありました。
南塩ルートの主なものには、遠州からの遠信古道と、三河からの中馬街道の二つがあります。
中馬街道の成立が戦国時代以降であるのに対して、遠信古道の誕生は古く先史時代に溯ります。

遠信古道は、遠州灘の相良から発して遠山地方を経て諏訪湖に続いています。
南信濃村から出土する縄文時代の遺物からも、北は諏訪和田峠、南は東海地方との交通が窺えます。
当時、遠州からは塩、信州からは和田峠の黒耀石などが運ばれ、遠山谷を行き交っていたことでしょう。
昭和十七年まで、秋葉寺の火祭りの際には湯立て神楽が行われていました。
その湯に塩水が用いられていたという事実も、秋葉街道と塩との関わりの深さを物語っているようです。

塩の道で運ばれた塩は<藻塩>

日本で塩が使われるようになったのは、古くは縄文時代末期頃。
海水のついた海藻を燃やしてそのまま塩として使う方法だと言われています。
その後、飛鳥時代に日本独自の「藻塩焼き」が作られるようになった。
薄い茶色で磯の香りがします。この製法は和歌にも残されている。

「来ぬ人を松帆の浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ」   

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